わたしの幸せは人と接すること

高野山の麓に広がる標高450mに位置する天野。ここはにほんの里100選に選ばれ、世界遺産の町石道、丹生都比売神社が鎮座する静かな里だ。ここに2021年3月、一人の女性が宿をオープンさせた。宿の主は歳の客殿りこさん。とても珍しい苗字だが、ご先祖は丹生都比売神社の神職も務めたことがある由緒正しい家系なのだそう。

りこさんは大阪生まれで、幼少期のわずか3か月だけ天野で過ごしたことがあるという。この里に住まうきっかけは「母が2014年に大阪からこの地に移住して、カフェを始めたことです。最初はお手伝いのために頻繁に帰っていました」

りこさんの職歴は高校時代からアルバイトで始めた居酒屋を皮切りに飲食店、カフェなどと接客業を中心に働いてきた。いずれも契約社員やアルバイトという形態で働いていたが、「正社員になるとその仕事しかできなくなるのが嫌でした。

飲食店の定休日にカフェの仕事をしたくて、色々と掛け持ちしてました。実は自動車部品工場でも2年間働いたことがあり、お客さんと関わらない仕事をわざと選んでみたんです。そこでわかったのは、私は本当に人が好きだということでした」

古民家の玄関を開けてしまいました

天野と大阪を毎月行ったり来たりする複住の中で、とある気持ちが芽生えたという。
「もっと自分を変えたい、いつか起業してみたい、この天野の地で」


母が天野で毎日生き生きと暮らす姿を見て、私もこうなりたいと思ったのだそう。そのためには、まずは自立しなくてはと思い、天野での拠点づくりをまずは始めることにした。ある日、とある古民家を紹介された。敷地は200坪で大きな蔵もある立派な屋敷だが、雑草も生い茂り、雨漏りもあると聞いて、これは一筋縄ではいかない家だと思いつつ、玄関を開けた。りこさんは、その時のことを今でもはっきりと覚えている。


「着物を着て、立っている姿が見えたんです。自分の住む拠点を探していたのですが、この古民家をリフォームして、宿をやってみようかと初めて思いました」


今までの経験から飲食店で起業してみたいと思っていたりこさんだが、宿の経営など頭の片隅になかった。


「でも、ふと思ったんです。飲食店ではたくさんの方と接する中で、私の体は一つ。わざわざ足を運んで来てくれたお客さんときちんとお話しできていないと感じることがあったんです。お客様の大切な時間を頂いているからこそ、お客様と向き合う時間をもっと作りたい。そこで、自然豊かなこの天野の里で“1日1組限定”のゆっくりと話せる空間でありながら、思い出に残るお宿を作ろうと決心しました」

古民家の庭を切り拓くために悪戦苦闘中
暖かい光に包まれた静かな部屋は癒しの空間だ

周りの人のサポートあってのわたし

宿の経営など全くわからないりこさんは、片っ端から色んな人に相談。すると、天野の里があるかつらぎ町が始めた起業者向けの支援制度を活用したらどうかと助言を受け、2019年秋に申請をしました。しかし結果は不採択。「自分の力の無さを痛感しました。皆さんに顔を会わせられないくらいに落ち込みました。でも、その時に前を向いてチャレンジしていこうと皆さんが励ましてくれました」


宿をやりたいという思いはより一層強くなり、貯金を大きく切り崩して古民家を購入した後、1年間“ホテル修行“の門をたたき、宿の経営を学んでいきました。そして、2度目の支援制度の申請機会が訪れ、コロナ禍の中、2020年夏に見事に採択。宿のオープンにとって大きな一歩となった。


ただ、ここから待ち受けるのはあの古民家のリフォームだ。手持ちの資金にも限りがあり、少しでも出費を減らそうと自ら進んで切り拓いた。そして、ここでも周りの人が次々に声を掛けてくれ、りこさんができない部分の改修を助けてくれた。

天野の里を好きになってほしい

週末にもなると天野の里には京阪神を中心にハイキング客が訪れる。高野山まで向かう巡礼者にとって、天野の里はちょうど良い休息地だ。

「地元の食材を使ったお料理を中心にお出ししています。特にこの里で取れるお米や野菜は標高が高く、昼夜の温度差が大きいため、味がおいしいとおっしゃってくれます。夜は満天の星空を眺めてもらい、朝は鳥のさえずりで目が覚め、一期一会の景色、四季の彩りを感じてほしい。

冬は雪も積もります。大阪とは違って、時間の流れ方が違うんです。疲れを癒す究極の空間にしていきたいです。そして、ハイキングのお客様には体力を回復してもらって、元気に高野山へ送り出すのが楽しみの一つです」と目を輝かせながら語ってくれた。

世界遺産石道から望む天野の里

※本文は雑誌『複住スタイル Vol.3』掲載記事に、Web限定記事を加えた形として、再構成しました。

Web限定公開の後編記事はこちら → 和歌山県・かつらぎ町 人とのつながりはわたしの心と未来を満たしてくれるる(後編)